村上春樹についてのmojimojiさんへの返答

mojimojiさんから、わたしが書いたことへの応答と反論を以下の


「自分を棚上げにするということ、隠喩の問題」
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090222/p1


というエントリーとしていただきましたので、できるかぎりわかりやすくお答えします。

「えげつない国家」とはどこの国のことか
僕は、イスラエルを「あんなえげつない国家」と言うときに、自分が日本国籍を持つ人間であることを考えないではいられません。北朝鮮を「あんなえげつない国家」と言うときに、やはり、日本国家が不問に付されているのを見ても、違う、と思うでしょう。ここでの「どんな国も支援しません」という追記は、不可欠でさえあります。と述べたら、相対化でしょうか?僕は、自分を棚上げにするのかしないのか、という問題だと思いますけど。


mojimoiさんのご意見にある面では同意します。自分の国家のやってきたことを「棚上げ」して、他の国家を「独裁」とか「人権蹂躙」とか非難できないと思いますし、さらに言いますと、わたしは、民族問題や経済問題を解決するために、すべての国民国家を廃絶しなければならない、と普段考えています(つまり「どんな国家も国家であるかぎり問題化せざるをえません」)。


しかし、村上春樹の発言が、そのようなものでないことは明らかでしょう。mojimojiさんに従うなら、村上は「わたしは日本人であるけれども(あるからこそ)、日本国家が過去に行なった戦争犯罪や国家暴力を批判しており、その上で同じようなことをしているイスラエル国家を非難する」と言わなければなりませんでした。そう言わなければ「自分を棚上げに」したことになるんですよね。私もそう言うべきだったと思います。ところが、ご承知のように村上は、そんなことはまったく発言しておりません。


そして、状況をよく考えてみてください。村上は、イスラエルの為政者とそれを選んだ国民を前にして、かれらに向かって、語りかけているのです。今まさにアパルトヘイトにも似た体制によってパレスチナ人を隔離弾圧し、ガザにたいしては無差別爆撃と民衆虐殺を行なっているのに、なぜその責任の所在を明確にしないのですか。「恐ろしい不正義を行なってるのは、自分に賞を与えようとしているあなた方だ!」と指弾しないまま、「どんな国も支援しません」というのは、問題をずらしているのであり、mojimojiさんがこの日本のブログのなかで、そう発言するときのような意味にはとうていなりません。ひょっとして、mojimojiさんは、誰かが殴られていて助けようとする時に、その暴力を振るう人に、「どんな人間も本質的には暴力的だから、もともと信用していないんだ!」とか言うのでしょうか。いささかシュールですね。

隠喩にすることの意味
イスラエルパレスチナといった構図を作り出した上で、どちらの側にも立たない、というようなことは、もちろん誤っています。パレスチナ側にもイスラエル側にもどちらにも死者はいるから、どっちもどっちだと述べることも、もちろん誤っています。しかし、弱い者の位置に立つとは、どういうことでしょうか。それは、たとえば、イスラエルパレスチナ(あるいは、ハマス)といった構図を作り出した上で弱い方の立場に立つ、といったようなことではありません。もちろん、パレスチナ側にもイスラエル側にも死者はいるが、とりあえずパレスチナ側の方が弱いから、パレスチナ側に立つ、というようなことでもありません。
 少なくともいくつかのことを、イスラエルパレスチナという構図を導入する以前に考えておくべきです。それが、卵の側に立つ、ということの意味です。すべての犠牲を、分けることなく、まずは、犠牲として受け止める。そこから出発するのが、卵の側に立つ、ということの意味です。そこから出発するならば、なにが見えるか。それらすべての犠牲が、イスラエル占領政策という一点から生まれてきていることがわかります。パレスチナの側に立つ、というのとも違い、問題はそこにこそあることが、明瞭にわかるはずです。(略)


このこともmojimojiさんのおっしゃられることにとりあえず同意しましょう。村上が強調しているのは、「イスラエルパレスチナ」という構図には収まらない、「犠牲者(弱い立場)」への支援だと。


しかし、それはあまりにも現実的基盤を欠いた、身勝手なとらえ方ではないでしょうか。「エルサレム賞」に出席のうえ受賞してそれを言う時、いったいどんな「イスラエルパレスチナという構図には収まらない犠牲者(弱い存在)」が呼びかけられているというのでしょう。パレスチナ民衆とユダヤイスラエル人が、同じ「犠牲者」として、イスラエル国家(壁)への抵抗のために連帯しているとでも言うのでしょうか? イスラエル国内のアラブ系の市民がそのような人でしょうか。しかし、「システムが私たちを作ったのではないのです。私たちがシステムを作ったのです」などという村上の発言の意味するところが、mojimojiさんがおっしゃるようなことだと、彼らが聞かされたら、「作ったのは、おまえたちだろ!『私たち』とか言って勝手に一緒にするな!」と、怒るに決まっています(「弱者を代弁している」とかしょうもないこと言わないでくださいね)。


「私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です」という発言も、非常に侮辱的なものです。イスラエルの体制が、「国籍・人種・宗教」の違いを使って、あるものたちだけを徹底的に差別し排除し、がんじがらめにしている所で、口にしたのですから。これはどう考えても、村上の言うところの「卵」には、パレスチナ人は含まれていませんね。含めるためには、絶対に「国籍・人種・宗教によって、人間を区別するイスラエルの国家と社会は、根本的に間違っています」と、ひと言入れなければなりません。まあ、わたしがこんなに丁寧に言わなくても、普通に読めば村上の語りに出てくる「私たち」は、ユダヤイスラエル人や欧米人、そして日本人としか言いようがないですね。公正に言いますと、もちろん私も入っていますよ。だから、怒っているのです。自分たちの自己正当化に、「他者」利用するなと。

「ガザの虐殺」と「市民的な苦悩」
僕は、世界のどこかでヒドイ虐殺が進行しているというニュースを聞いても、家族の具合が悪ければその心配をし、虐殺のニュースについて忘れています。つまり、「ガザの虐殺」より「自分の市民的な苦悩」が、大きな関心ごとである、としかいいようがない生を僕は生きています。「自分の市民的な苦悩」より「ガザの虐殺」を重く位置づけるような生を生きている人がいることは知っています。ただし、私はそれをしたくありません。正当化するつもりはありませんが、したくありません。それを前提にモノを考えています。(略)


ようやく本音を言っていただいて、話がわかりやすくなりました。そういう前提で、書いていらっしゃったとは、気づきませんでした。わたしのほうに思い込みがあったようです。こうなると、別にわたしはmojimojiさんと、この件で議論をする必要はないのかもしれません。しかし赤木論文についてのこともさらっと読みましたが、なにかいきなり下世話な切り分けの話になっていませんか。先ほどまで引用してわたしが言及してきた上記の箇所であなたが含めていた問題から、飛躍が激しくて、ちょっとその両極端を怪しみます。

主題化しても隠蔽していると言われる
正直、この解釈は本当にわからない。おっしゃるように、イスラエル人の大半は、自分の親や子どもや兄弟姉妹や恋人や友人が、また自分が、パレスチナ人を殺してきていることを知っており、それを「見ないよう知らないよう話さないよう」にしているのでしょう。それを打ち破る必要があります。しかし、それを話題にするということは、それを問題にする、ということです。普通は。隠蔽したいなら、父親の話など、しなければよいわけです。しかし、村上はわざわざそのことを語っている。tmsigmund氏の解釈は逆ではないでしょうか。
 まして「彼ら親子は、そのことを語り合うことはなかった」というのはどうでしょう。これも事実と正反対と言ってもいいのではないでしょうか。彼らは語り合っている。写実的に、雄弁に語ったわけではないのでしょうけど、それをもって「語り合うことはなかった」と言うのは、ただの傲慢です。


ほとんどmojimojiさんの言いがかりになっていると思いますが、しかしここは、確かに理解の仕方がむずかしいのかもしれません。とりあえず言えるのは「父親が戦争中に自分の手でどれだけ中国の人を殺したのか」というような問題を、村上自身が文字通り明らにしているわけではありません。スピーチをもう一度お読みください。どこにもそんなことは書かれていません。


わたしこそが、村上の話しぶりをとらえて、あえてそのような問題として指摘しているのです。というか、わたしにはそのようにしか読めませんし、日本人はだれもが、そのような問題として考える必要がある、と思ってしまいます。という意味では、村上は十全にそのことを暗示しているともいえるでしょうか。


ただし、こういうふうにわたしが指摘せざるをえないのは、村上がそれを自分でわざわざ取り出しながら、問題の核心だけはどういうわけか、依然として隠蔽しようとしているからなのです。「エルサレム賞」のスピーチに、イスラエル批判とそのための日本批判を盛り込むなら、「われわれ日本民族は、国家の近代化を進める上で、近隣諸国を植民地にし、戦争を仕掛け、多くの人々をひどいやり方で虐げ、殺してきました。わたしの父親も戦争に行き、何人もの中国の人々を殺したのです」と言うほかないところを、ただ単に「(父親は)味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていました」というのですから、これはまったく奇妙な振る舞いです。だったら、何のためにそんな話をするのか? 結論としては、前回のエントリーに書いたように、「自分の父親や兄弟や子供が、パレスチナ人を殺していることに気づきながら、それを見ないよう知らないよう話さないようにするイスラエル人」への「深い共感」のあらわれだということになるわけです。


「彼らは語り合っている。写実的に、雄弁に語ったわけではないのでしょうけど、それをもって『語り合うことはなかった』と言うのは、ただの傲慢です。」というmojimojiさんにも丁寧にお答えしますが、もし「語り合っている」として、それはなんのためなのでしょう。人を殺したことを国家の「システム」のせいにして、「殺害者」側の家族が自分達の心の傷を癒しあっているような「語り合い」について、「それはちゃんとあった」とあなたが言い立てることに、どういう意味があるのでしょうか。わたしが主張していること=「村上は、欺瞞的なイスラエル国民に親和的だ」ということに、より積極的な証明をしていただいているのでしょうか?


それと、参考までですが、『イアン・ブルマの日本探訪―村上春樹からヒロシマまで』という本で、父親について同じようなことを村上は語っているみたいです。以下の方が紹介されていました。「言い出しておいて引っ込める」という、わたしの指摘した村上的兆候がこちらの方がよりはっきりあらわれているようです。そして、父親が中国戦線で実際何をしたのかをきっちり「語り合わなかった」ことが、吐露されています。


村上春樹はなぜ両親について語らないのか―全共闘世代のルーツ・『村上春樹の両親』」
http://blogs.yahoo.co.jp/nonakajun/54760604.html


インタビュアーが日本人でないというところが、端的にこの問題の意味を特徴づけていると思います。日本の批評家や読者は、だれも村上にそういうことを突っ込まなかったのでしょう。


しかし、ここでわたしは驚くべきことを言いますが、「村上は父親のことを語るつもりはなかったのだろう。口にしてしまって心配になったらしい。翌日電話をかけてきて、あのことは書きたてないでくれと言った。」という上記で紹介されているインタビュアーの暴露も、わたしのような一介の批判者がぶつける、「お前の父親は、中国の人をどれだけ殺したのか」という指摘も、あるいは、多くの人がそんな問題を見逃し「人の痛みを感じとることへの共感」のようなものへと安易に流れてしまう傾向も、また、それなりにいる左寄りのイスラエル読者が「ムラカミは私たちのことを言ってくれている」と感激することも、一方で、悪辣なシオニストたちが「小国のイスラエルではなく、アラブこそ壁ではないか」と怒りだすことも、すべてそういう反応が生じるように、入念に十全に考え抜いた形で誘導的に、村上春樹は、小説やインタビューやスピーチを公表しているのです。村上は、無意識的に見えて、異常に意識的な配慮と思慮をほどこしている作家です。数多くの互いに矛盾するような見方や意見が出てくるのは、村上が「曖昧」だからなのではなく、あるいは「多義的」などではけっしてなく、「操作的」だからでなのです。


そしてmojimojiさんへの最後の応答になります。

解釈ゲームの外はない
tmsigmund氏は、少なくとも、村上のスピーチに対する解釈を示しています。それに基づいて批判しています。それって、「授賞式が行なわれる前の時点で「イスラエルの『エルサレム』賞を受賞するというのは、いかにも村上春樹に似つかわしいことだ」とわたしは書いた」に正当性を与えるためにあれこれ解釈を繰り返している以外の何物でもない。自分が同じことをやっているという自覚はないのでしょうか。


だからわたしは、最初から問題を限定しています。今回「エルサレム賞」を受賞しないように訴える相手が、村上春樹だったのは偶然にすぎず、結局、「村上は大雑把にでもイスラエルを批判した」ようだから話はそれで終わりだ、とはっきり言っています。それが大前提だと、繰り返し、そう書いています。


Mojimojiさん、あなたが村上の露骨な「操作性」にあまりに無自覚なようだから、「パレスチナの側にたつ」人であるはずだと思って(やっぱり勘違い?ってそんなことないですよね)、わたしは注意をしたのです。村上の「文学的」な言説には、明瞭に操作的な、そして政治的なバイアスが、巧妙にはりめぐらされていることに、あなたがあまりに鈍かったから(正直ですいません)、どういうところに、それがあるのか示したつもりです。もちろん、そこに多少のわたしなりの解釈が入るわけですが、あなたと解釈ゲームをすることには、なっていません。私は、基本的には前のエントリーの内容を繰り返しただけです。あなたが「わたしの(偏った)解釈」だと考えた箇所も、わたしよりは、村上自身の言葉が、指し示す一つの方向であることが、再検証をして理解していただけたのではないかと思います。あなたがわたしの意見に納得できなくてもいいのです。「村上のスピーチ、よく読んだら、確かになんかおかしいな」という感じがあれば、十分です。おそらく、しばらくすれば、こういう議論からだんだん離れてしまうでしょう(わたしはこれでやめます。前にも書いたように、パレスチナ問題を村上を通じて考える必要はないし、かなりの程度で有害です)。


もちろん、わたしがそれを決めることではないので、後はmojimojiさん次第ということです。村上をあまり知らないのは、本当は健全ですよ。本を何冊かお求めになられたようですけれど、まあ、これからいくつかお読みになるのも、悪いことではないかもしれません。わたしとしては、毒にも薬にもならないことをお祈りしておきます。