フィリップ・シーモア・ホフマンを

映画館で見逃した『カポーティ』をDVDで見る。

カポーティの小説を『冷血』はおろかなにひとつ読んでいないので、代表作とその創作にまつわる作家の伝記的な側面を描いたこの映画について、あまりえらそうなことは言えないのだが、それでも直感的に「エンターテイメントとしては、カポーティをうまく描いているのではないか」と感じた。とくにニューヨークのスノッブな業界バーで、誰よりも圧倒的な俗物性をまきちらしている姿は、なかなか見ものだった。普通に見ればちょっと嫌な印象を受けるはずである。しかし、カンザス州の田舎で起こった殺人事件の取材に出かけ、保守的な土地の人たちからその挙動を「キモイ」と感じられてしまうところは、まず面白いし、そのことにそれなりに自覚的でいながらまったく臆せず、「なよなよ」し続ける姿は、結構かわいい。

ところが、本編の主要な見どころとなる、殺人を犯し死刑判決を受けるペリー・スミスと作家とのかかわりについては、いまひとつではなかったか、という気がする。まずカポーティは、ペリーという人物の感じや置かれてきた境遇などに感情移入して、裁判の継続をふくめ彼を支援し、同時に事件とペリーに関する小説を書き始めるのだが、次第にこれがダブルバインディングな状況を生む。ペリーを救いたいと同時に小説を完成させるためにペリーの死刑を望むことになるからだ。映画はここにこそカポーティ人間性と作家性の極端な表れがあると考えて、中心的に描こうとしたに違いない。

しかし、これはいまいち成功していない。カポーティの中にあるはずの矛盾がさはど生々しく立ち上がってこないからだ。なかなか死刑にならないことに鬱屈としていたにもかかわらず、絞首刑にされるペリーを見届けるカポーティが最後に涙を流すシーンがあるが、これも理屈では分かっても、映像とストーリの中で説得力をもっているとは言いがたいだろう。ひどいことを言うようだが、ストーリテイリングのメカニズムからすると本当は逆ではないのか?ペリーに心底感情移入してもっと必死で救いたいと感じながら、死刑の後は同情もなく冷徹に小説を仕上げる、こういうほうが、作品としてはもっとしまりがあっただろうと思う(いずれにしても、死刑がいかに非人間的な制度であるか描きえることなど、とうてい望むべくもないが)。

とにかく、妙なヒューマニティを匂わせる終わり方が、ややあざといところなのだが、まあしかしエンターテイメントとしてはよかったほうかと思う。これはひとえにカポーティを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンの存在によるところが大きいだろう。というか、ほとんど彼のための映画、彼を好きになれるかどうかの映画という感じなのかもしれない(製作総指揮もとっているんですね)。そしてあまり気づかなかったが、調べてみると今まで見た映画(少ないながら)にも結構出ていたようだ。『マグノリア』?『リプリー』?『パンチドランク・ラブ』?『コールド・マウンテン』?全然覚えていない。『M:i:Ⅲ』はこの間だからわかるが。

今度ポール・トーマス・アンダーソンの『ブギーナイツ』を見てみよう。