【書評】『ユダヤ人の起源―歴史はどのように創作されたのか』

シュロモー・サンド著『ユダヤ人の起源―歴史はどのように創作されたのか』(高橋武智 監訳)についての書評を以下にあげました。これはパレスチナの平和を考える会の機関紙『ミフターフ Vol.28』(2010年12月発行)に掲載されたものの転載です。

 本書は、ユダヤ国家としてのイスラエルナショナルイデオロギーの中心にあるシオニズムを批判的に問い直すこころみとして、邦訳出版されるやいなや話題をよんだ。歴史研究家の立場からだけではなく、現代の聖書研究やポストモダニズム系のナショナリズム論などの成果を援用したうえで、「ユダヤ人」や「ユダヤ民族」をめぐる根深い神話の解明・解体につとめていて、論述は全体として説得的である。著者がユダヤイスラエル人であることから、このこころみは「イスラエルユダヤ人)内部からなされるシオニズム批判」として見なされ、また著者自身がそうした姿勢を明確にしていることも、本書が注目をあつめた理由のひとつだろう。すでに読まれた方も多いかもしれない。


 では、本書のどのあたりがシオニズム批判となっているのだろうか。


 展開している議論の中でとくに重要なのは、現在も広く行き渡っている「ユダヤ人」に関する人種的・民族的同一性の信念への再検討と批判である。つまり「『ユダヤ人とは人種的、歴史的に独立した、単一の特殊な存在である』というような見方は、根拠がなく、まったくの神話にすぎない」というものである。


 たとえば本書によると、ヨーロッパ、アフリカ、中東地域にユダヤ教徒が存在するようになったのは、ユダヤ教が共同体を超えて広がる普遍宗教だったからである。つまり古代・中世を通じてヘレニズム/ローマ/ビザンツイスラム世界に伝播した結果であって、ローマ時代の第二神殿の破壊の際に、パレスチナから「追放」や「離散」の憂き目にあったためではないのである。歴史資料的にも、ユダヤ教共同体の民衆がそこから移住した記録はなく、布教や改宗というプロセスをへて、ユダヤ教徒とその共同体が各地域に成立したというのが、実際のところのようである。


 こうした歴史的事実からすれば、イスラエル国家とユダヤイスラエル人たちが、自己正当化のためにシオニズムを通して主張するような理屈は成り立たない。つまり「ユダヤ人がパレスチナイスラエル)の地に『帰還』する」ための、歴史的・権利的・道義的根拠など、どこにもないことになる。


 当然のことながら、反ユダヤ主義者が差別する根拠として言い立て、同時にシオニストも主張した「ユダヤ人」の「人種」的連続性など、妄想や妄言に属するものであり、早々に一掃されることが望まれるだろう。また、いわゆる民族的同一性も、旧来からのキリスト教的偏見と近代のナショナリズム観によって再構築されたイメージにすぎない。これは、近代までの各地域のユダヤ教コミュニティーの歴史的・言語的・文化的な差異と多様性を考えるなら、ほとんど自明のことといえるだろう。


 パレスチナイスラエル問題における基本的前提となるべき、こうした歴史的事実とその理解を、あらためて俎上にのせたことは、著者の大きな貢献であろう。わたしも、いわゆる「ユダヤ人の二千年におよぶ『離散』」の物語を、宗教的な信条や信念と限定せずに、ぼんやりとながら実際にあったことであるかのように受け取っていたし、今も多くのひとがそうした間違ったイメージにとらわれたままではないかと思う。このような思い込みや誤解が、イスラエル国家の行いに対しては違法性の認識を鈍らせ、パレスチナ人解放の動きに対しては阻害要因になっていると指摘しなければならない。とくにニュートラルで客観的だと見なされている新聞やテレビメディア、ジャーナリズムやアカデミズムでの言説でさえ、こうした弊を免れていない現状では、本書の議論は有益であり、むしろ本書を活用しての積極的な「啓蒙」すら要請されるのかもしれない。


 しかし同時にわたしは、この種の歴史的事実に依拠した「啓蒙」が、ただちにパレスチナの人びとの人権を尊重し、彼ら彼女らに苦境を強いているものたちの不正義をただそうという方向に人を向かわせるかどうかについては、大いに疑問を感じている。


 というのは、シオニズムへの明快で揺るぎない批判を展開しながら、シュロモー・サンド自身が、結局は、イスラエルのナショナルイデオロギーの再定義、再構築のためにこそそれを行っているからである。端的に言えば、シオニズムを主要な位置から退場させはするが、その代わりに、近代ヨーロッパにおける反ユダヤ主義の経験に基づいた「ユダヤ人」アイデンティティを、強調することになっている。しかも巧妙にもポストモダン的(批判的)なネイション=ステート論を活用することで、たとえシオニズムが根拠のない幻想であっても、それがユダヤネイション形成の一翼をになったという「歴史的事実」をもってして、逆説的に価値付けてもいるのだ。だから、彼が上述の認識にもとづいて、どれほどイスラエル国家を「ユダヤ人」だけのものではないと主張しようと、どれだけ西岸やガザでの占領に反対しようと、それはイスラエル国家の存続のため、あるいは「ユダヤ人」の道義性確保のためであって、シオニスト帝国主義者がおこなった植民地支配に苦しむ人々=パレスチナ人のためではないのである。


 もちろん著者は随所で、イスラエルを本当の民主国家にすべく、「ユダヤ人」も「イスラエル内のパレスチナ人」も含めて、国家の成員すべてが主権者としてみなされる必要を説いている。しかし、これがあまりにも身勝手な「民主化構想」であり、民主主義の実質を担保しないことは明らかである。たとえば1967年の占領を終わらせると考えるのはいいとしても、なぜその次に、イスラエル建国によって難民になったパレスチナ人(西岸やガザ、周辺国および世界中にいるパレスチナ難民)も、イスラエル国家の主権者であると考えないのか? 本当の民主主義国家なら、そこに住んでいたパレスチナ難民に、当然その地での本来的な政治的権利、財産権が想定されるはずである(たとえ、その国の名前が「イスラエル」であろうと、である)。


 また、「イスラエル内のパレスチナ人」に今以上の平等な政治参加の権利が与えられると、著者は信じているようだが、大きな欺瞞を指摘せずにはいられない。イスラエル国家やシオニズムの問題は、「『ユダヤ人』だけに改善し克服する権利がある」かのような著者の前提では、永遠にそのことは不可能であろう。本当の民主国家ならば、人種差別を繰り返す専横的な党派(シオニスト、多くのユダヤイスラエル人)を規制し、処罰する権利が、同じ社会を構成するその他の人々にこそあるものである。つまり、「イスラエル内のパレスチナ人」が主導的にイスラエル国家のシオニズムを解体する手続きを行うことができないなら、それは果たして「民主国家」だろうか? そしてそれなしにシオニズムが本当に解体できるだろうか? そういう発想が本書の中には微塵もなく、著者の「民主主義」理解は、あまりにも独善的というしかない。


 要するに、いまや狂信的としか言いようのないシオニズムは批判できても、またユダヤ教徒の人種的民族的な純粋性は否定できても、著者は自国における「ユダヤ人」のヘゲモニーと優位性を『解体しなければならない』と考えることができない。それなしには、本当には他者の排除をやめることもできず、イスラエルによる強占的な植民地支配をただす機会も訪れることはないにもかかわらず、である。つまり「ユダヤ国家」であり同時に「民主主義」であるという、現在のイスラエル為政者の分裂した自己規定と、サンドの主張は根本的にはさほど変わりがないのである。


 ただし、こうした批判が可能だからと言って、日本人であるわたし(たち)は、サンドの議論が抱える問題に、鈍感であるわけにはいかない。なぜなら「イスラエルにおいて『ユダヤ人』のヘゲモニーを解体しなければならない」と考えることができないユダヤイスラエル人の限界に、自分たちと同様の限界を、つまり日本の植民地支配に起因する独善的かつ抑圧的な体制に無自覚な自分たちのあり方と、ほぼ同じ構造を見つけざるを得ないからだ。


 たとえば、日本が本当の民主国家なら、何世代、何十年にもわたって日本で暮らす在日韓国朝鮮人や在日中国人に、必要十分な政治的・市民的権利をとっくに担ってもらっているはずではないか? 民主主義を標榜するなら、朝鮮高校だけ授業料無償化の対象から除外したり、外国人登録証を携帯しないことに刑事罰を科していたり、デマや偏見でもって他者の人権を損なう言動を一般人あるいはメディアを問わず繰り返したりするのは、ありえないのではないか? このような民族差別・人種差別はまったく許しがたいが、これを日本人が日本人のままでただすことは、ほぼ不可能だろう。なぜなら、それを差別だとも思わず、日本人しかここにいないかのような社会的な仕組みを作り、そうでない人にも平気で強要するのが、日本だからである。こうした日本の現実を無視したままでは、イスラエルの植民地支配の継続やアパルトヘイト政策を十分に批判しきれないだろう。


 パレスチナの人びとの解放と、日本における「人種差別」の撤廃は、思想上や道義上はもちろん、現実の政治関係・国際関係のうえで明確に結びついていると、とわたしには思える。

ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか

ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか

2011年01月03日のツイート