『マリー・アントワネット』のかすかなサスペンス

ソフィア・コッポラの最新作『マリー・アントワネット』を見に行った。

予想通り、マリー・アントワネットという誰もが知っていて、その意味ではあまりにも固まりきった定型的イメージをもつ歴史人物を、ソフィア・コッポラは、お得意のガーリッシュなファンタジーとそこはかとなく寂しさの漂う情景で飾り上げ、だれも想像しなかったような完全に新しい存在へと作りかえている。それはそれで面白い。作品のすみずみにまで配慮を行き届かせ、どの場面も非常に丁寧に描いているのも好感が持てる。しかしソフィア・コッポラの作品を見てきたものからすれば、マリー・アントワネットを、これまで同監督が好んで描いてきたタイプの現代女性のアナロジーでもって再解釈をほどこすというのは、いかにも正攻法すぎて、やや新味に欠けるともいえる。

しかし今回の映画には、以前の作品には感じられなかったものもあった。それは、一種の緊張感である。歴史的人物である主人公がたどることになるはずの末路を、見ているものはあらかじめ知っているわけだが、この、贅沢なケーキとオシャレな衣装に囲まれることで自らのよるべなさを隠す、ほとんど今風の女性としか言いようがない「マリー・アントワネット=コッポラ」が、いったい、その決められたクライマックスをどのように迎えうるのか? そんな気がかりが、冒頭から観客をかすかに落ち着かせない。

「ガーリッシュな夢に満ちた幸福な世界はきっと終わる。」

『バージン・スーサイズ』では、少女たちが自らいのちを断ち切ることで、その終わりを主体的に実現し、同時にこの少女たちの自殺の「謎」が、人々に「幸福な幻想」を壊さずにすませる。しかし、この「マリー・アントワネット」には、そんな選択はありえず、歴史に従うほかない。とするなら、無残でみすぼらしい現実の侵入(革命!)によって「少女たちの世界」は、ただ踏みにじられるのを待つだけなのか? これが作品のなかに、結末へ向けての、気づかれにくい程度の、かすかなサスペンスを生み出していると思う。それゆえ、作品を通じて繰り返される「ガールズ・ワールド」の反復的な描写も、宮廷生活の「退屈」を表象していながら、観客にまさに「退屈だ」と感じさせるのを、ぎりぎりまぬがれさせているのではないか。

要するに、これは、まったく歴史的ではない。しかしながら、また堂々と歴史を描いている。そんな二律背反的な特徴は、歴史を素材にした作品としては、まあ割合あるものでもある。しかし、7,80年代のロックやポップスが似合うようなこの「マリー・アントワネット」の荒唐無稽さは、監督の創作のたまものなのか、やはり実在のマリー・アントワネットが持っていた奇矯さでもあるのか、ときに判断がつかないところなどは、その特徴が存分に生かされている一番のポイントだろう。だから、この映画の中でそのこと、つまり「新たなマリー・アントワネット像を描く」というもくろみは、なかなかにうまく実現しているように感じられた。