見にいくつもりなかったが、

何となく他に積極的に見たいものが思いつかなかったので、スコセッシの最新作『ディパーテッド』を見る。

インファナル・アフェア』のリメイクということで、ストーリーが分かっていたわけだけれど、そのわりには面白く見られるようになっていた。まあ、そういう意味では、がっかりしたり、損したという気持ちにはならなくて、かなりよかったと思えた。しかし、いまひとつ深い満足感にひたされたり、強いショックを受けるということもなくて、そうすると、しばらくしてだんだん「物足りなさ」の原因を考えこんでしまうようになる。

マフィアと警察の抗争という本来のシナリオに、さらに「合衆国におけるアイルランド系移民」という背景を組み込むことによって、本作は、レオナルド・ディカプリオマット・デイモン演じる二人の主人公に(そしてジャック・ニコルソン演じるマフィアのボスにも)人物造形の点であらたな奥行きを与えようとしている。ストーリ展開があらかじめ知られている不利をおぎなうような新味として、これはなかなか成功していると思う。

ところが、映画の全体性としては実は逆効果になっていたのではないだろうか?つまり人物たちに何か意味ありげに背負わせた「民族的アイデンティティ」が、作品を通じて単なる素材や記号にとどまるくらいにしかあつかわれないため、最終的には設定の「必然性の弱さ」のほうを観客に印象づけてしまうのではないだろうか。とくに、警察に潜入したマット・デイモンの、ボス=ニコルソンにたいする忠誠心は、アイルランド人意識によって根付かされたはずなのに、後半一人生き延びようとするデイモンにはほとんどそんな説得性が感じられない。物語が「裏切り/信頼」「敵/味方」という分割をめぐってだけ展開しようとするなら、やはり「アイルランド系移民」というような問題性はまったく必要なかったのではないか。おそらくそれを意味づけて描ききれないがため、偽刑事=デイモンは元作とは違い、殺されて終わることになる。そう処理するしか、この「必然性の弱さ」を覆い隠すすべがないからだろう。

しかし、こういったからといって、すべてがマット・デイモンのせいというのではない。彼と、マフィアに潜入する刑事=ディカプリオとが完全に対になるように構成されているにもかかわらず、映画はイーブンではなく、どうしてもディカプリオびいきになっている。これは、まずはディカプリオのほうに悲劇性や人間味が与えられるということなのだが、同時に、デイモンがそうあるべき「悪役」として明確に描かれなかったということでもあるのだ。デイモンを「悪役」として強く描かなければ、その対は完成しない。そしてこれを生ぬるくさせているのが、どうもこの「アイルランド系移民」の出自という設定ではないか、と私には思えた。

では、イタリア系移民であるらしい監督の意識には、以上のような点はどのように考えられているのか、ということについては、そこまではちょっとよく分からないというしかないのだけれど。