運と『マッチポイント』

ウッディ・アレンの『マッチポイント』をDVDで見る。非常に信頼できる映画狂の方が絶賛だったし、大方の評判もよさそうだったので、正直、はじめから傑作だと疑わずに見てしまった。でも、少々期待しすぎたかもしれない。

もちろん悪くはなかった。シナリオの構成の妙と緻密さはすばらしく、いわば「堂々たる古典性」の発揮という感じだった。しかし、どこかエモーショナルなものが突き抜けきれずに終わったのが、物足りず、残念だった。なぜだろう。主人公の狂気・情熱を一貫した形で立体的にバランスよく描けていなかったのでは?それゆえ、作品の「古典性」ばかりが目だってしまい、人物もその作品の「古典性」になじむようなイロニーと虚無感をまとうことになったのではないだろうか。

冒頭の「ネットにかかったボールがどちらに落ちるか」という映像メタファーと、テニスプレーヤーであった主人公の「運」についての「哲学」は、最後に二重に主人公に復讐している。結末において作品は、主人公が「運」から見放されたように見せておいて、その逆に破滅から逃れさせる。しかしこれは「運」がよかったどころではなく、あきらかにアイロニカルな虚無へと主人公を突き落としている。後半とくに参照されていた『罪と罰』のラスコーリニコフとは、実は、ちょうど反対なのだ。

しかし、このような「古典的」な完結感にまぎれてしまいそうになるが、本当は主人公は「運」をまったく無視していたことを忘れてはなるまい。というのは、裕福な上流階級の家族たちと関係を持ち始めるなかでいろいろな巡り会わせの良さが続くのだが、しかし心ここにあらずというように、その「運」のよさに主人公はほとんど積極的な関心を持たず、一方でまったく脈絡なくスカーレット・ヨハンソン演じる女優志望の若い娘へ執着を高める。

象徴的なのは、出会いの最初に卓球をするのだが、実力は歴然と主人公がうえで、ほとんど「勝負にならない」のだった。というか、女は「勝負する気さえない」ように見えた。つまり、「勝負」自体成立しないこの二人の間には、「ネットにかかったボールがどちらに落ちるか」という「運」が問題になる余地が、そもそもなかったことになる。要するに作品が「運」をめぐる「古典性」を構築するさなかに、それに真っ向から反抗するように、自身が吐露する「哲学」と完全に食い違うように、主人公は女を求める。ここには「勝負」はなく、人生さえない。その狂気めいた執着によって「メロドラマ」は成り立つようにかんじられる。しかし……。

しかしこの狂気めいた執着は、次第に冷たく硬直し始める。映画は主人公が「女に冷めた」と解釈するように促しているのかもしれないが、そうではないだろう。主人公にとって「冷める」内的な理由は、もともとの脈絡のなさから考えると、どこにも見出せるはずがない。それよりも「運の哲学」に作品も主人公もあらためて寄り添い始めようとするからではないのか。そうなると作品も主人公も積極的に「運」を試す方向へと向かう。そして女が邪魔になる。ここにこの映画が強く「エモーショナルなもの」に観客の目を向けさせながら、それを発展させることなく終わらせた原因がある。

同時に思うのだが、作品が「エモーショナルなもの」に付き従わず、「古典的」完結に向かうのは、若い女を演じているスカーレット・ヨハンソンという女優にも問題があるのではないか、ということだ。なんとなく、この女優について感じるのは、いまひとつガツンと打ちつけてくるパワーがない。作品そのものを食ってしまうようなところがなくて、ファム・ファタールは似合うようで役不足ではないのか。少し前に見た『ブラック・ダリア』でもそういう印象があった。批判するつもりはないのだが、なんとなくそんなこと思った。