マイケル・チミノ『天国の門』

青山真治阿部和重が以前からよく言及していて気になっていたマイケル・チミノ監督作『天国の門』をDVDで見る。

率直にいって、なんと形容すればいいのかよくわからない。“超大作でありながら異様なマイナー性をただよわせ、大傑作であったかもしれない可能性の炸裂によって、大傑作たりえずに終わっている、なんともすさまじい映画”というそんなかんじだろうか。しかし決して「失敗作」とはいえないと思うし、まして「大失敗作」などというのはおかしいと思う。

『ディアハンター』の成功を受けて巨額の資金をつぎ込んで製作されたチミノによる同作は、1980年に公開されたがまったくヒットせず膨大な赤字をたたきだし、とうとう映画制作会社をつぶしてしまったという。批評家からも「災害」とまでこきおろされる。そして映画への悪評にとどまらず、責任を追及されたチミノ自身が一時ハリウッドを追い出されたのだった。いわばこの『天国の門』はいまわしい作品として烙印を押され、映画の表の世界から存在を抹殺されたことになる。

しかし、なぜそれほど評価が低かったのか、理解しかねるところがある。19世紀末のアメリカ合衆国中西部で「WASP」によってひきおこされた東欧系移民虐殺という物語の題材が、合衆国社会の白人マジョリティーの感性を逆なでにしたからかもしれないが、しかし合衆国の悪を描く映画は、ごまんとあるのだから、単に「題材」だけが拒否反応を引き起こさせたのではないだろう。それを途方もない労力をつぎ込んで圧倒的な力わざで描ききろうとした作り手の執念が、一体なにによるものなのか、どこからくるのか、それを多くのアメリカ人が理解できなかった、あるいは理解しようとしなかったからだろうか。実際、この映画に対する作り手の意図は、容易には理解できない、どこか破格なところがあるのは間違いない。

確かに映画は、合衆国でのステイタスを確立したアングロサクソン系白人富裕・権力層のおぞましさを、包み隠さず描いている。しかし、意外にそのような悪を単純に「告発」するようには、描かれていない。むしろ東欧系移民たちの中で富裕層と貧困層が対立したり、虐殺されるかもしれない恐怖から自分たちのほうが予防的に銃による戦争を仕掛けていく熱狂・狂乱をとらえている。同情を引き起こしながらも、どこか距離をもたさせられるのだ。

また主人公の保安官は、悪どい「WASP」たちと同じ階層の出身者なのだが、移民たちの苦境に寄り添うかたちで味方についている。つまり「弱きを助ける」ヒーローであるはずなのだが、しかしそういう正義感から移民と一緒に戦うのか、同じく移民である一人の娼婦を愛するがゆえに加担するのか、あるいは自らの階級からのドロップアウトにまつわる自己内省からそんな行動がみちびかれるのか、これもはっきりせず、見ているものは、どこを中心にして受容すればいいのか、かなり難しい。そして主人公以外にも物語りの視点を分け持つことがふと生じる人物が何人かいて、よりいっそう錯綜の度合いを深めることになる。

要するにこれは、複雑な映画である。しかしこの複雑さ自体は、映画なのだから、もちろん受容されうるものだと思う。ただし、繰り返すが、この複雑さをかもす映画の意味は、一体何なのか? それが大きな不可解であるといえば、そういうことになる。