『ブラック・ブック Black Book』

ポール・ヴァーホーヴェン監督の『ブラック・ブック』を見る。

ナチに家族を殺されてレジスタンス運動に身を投じ、ついにはナチ将校にスパイとして近づくユダヤ人女性が主人公であり、題材としてはシリアスな内容を含むわけだが、アクションやサスペンス、メロドラマの要素を、これでもかといわんばかりに息つく暇なく盛り込んでいる娯楽大作にもなっている。二つの間にはかなり大きなギャップがあり、それをどう受け止めるかが、作品を受容するポイントになるように思える。というのは、見ているときは展開がすさまじいほどに早かったり、意想外なほうに流れたり、観客はじっくり考えている暇がないけれど、そしてそれはこの映画が面白く作られているということであるのだが、終わってからはやはり作り手がどのような意図を持って「ナチに近づくレジスタンスのユダヤ女性」を描こうとしたのか、という疑問はわいてくるようになるからだ。

映画に誘ってくれた人は、同監督の『トータル・リコール』をほうふつとさせる娯楽性の高さを評価していた。つまりこういうテーマだからこそ、エンターテイメントに徹している映画の作り方に、素晴らしさと凄みを感じると。なるほど、確かにシネマの宇宙人はおっしゃることが違うし、正直に面白かったというべきのような気がする。

主人公のエリス(ラヘル)演じるカリス・ファン・ハウテンという女優がとても魅力的で、この映画を支える大きな柱になっていた。これは誰もが感じるところだろう。それでひとつ私が印象深く思ったのは、描かれるユダヤ人女性が、「ユダヤ人」と規定されながら、そこからイメージさせる歴史的・民族的・宗教的「根拠」のようなものを、滲み出させない「人格」の持ち主だというところである。

ナチスによるユダヤ人排斥・抹殺という弾圧と暴虐が荒れ狂う時代の中で、ラヘル=エリスの人生は翻弄されるのだが、しかしオランダ人中心のレジスタンスグループに身を寄せ、ナチの諜報部の悪人とみなさざるを得ない将校を愛してしまい、自分の家族を殺したまた別のナチス将校と歌を歌う。ふつうは、ユダヤ人であるということが見破られれば殺されるという息詰まる状況でありながら、ラヘル=エリスは、ほとんどそう感じていないように見える。あるいは、自分が女性であり、それゆえレジスタンスの対ナチ工作にその美貌を利用するように促されるわけだが、それもほとんど意に介さない。ナチの将校を愛したときも「憎むべきものなのに」というような陳腐な葛藤もなく、親の敵の近くにいても殺意を抱いたりもしない。つまり「自分が何ものであるか」ということをまわりが規定することに従いながらも、まったくそんなことには関係なく、「彼女」であることがただあるのみでなのだ。

だから、物語の現在であるイスラエルキブツにおいて、当時の回想にふけるラヘル=エリスの表情に沈鬱の影がみえるのは、意味深長であるように思えた。ユダヤ人のシオンとして暴力をともないながら作られていったイスラエル国家に、どういう経緯からか、今は住んでいるラヘル=エリス。小学校の先生としてヘブライ語を教えている姿もあった。しかしその現代イスラエルアイデンティティに彼女は完全な充足や一致を獲得できていないのではないか。あるいは、イスラエルに住むユダヤ人といっても、ラヘル=エリスのようにユダヤ人的根拠がまったくない人間も、イスラエルに流れてこなければならなかった事情ということもあるのだろう。荒野といえるようなキブツの自然の中で、メランコリーを漂わせる彼女の姿には、そのようなことを感じさせられるのだった。

オフィシャル・サイトhttp://www.blackbook.jp/ (日本語)