イスラエルボイコットにおける村上春樹の文学的問題

ご存知のかたも多いかもしれませんが、村上春樹が今月15日からイスラエルで行なわれる「エルサレム賞」という文学賞を受賞するという話が伝わっています。あれだけガザでえげつないことをやっているイスラエルから、しかもこんな時期に賞を貰い受けるということに強く反対するため、「パレスチナの平和を考える」が、


「エルサレム国際ブックフェア参加と『エルサレム賞』受賞に関する村上春樹への公開書簡」


を発表しています。またこれは、2月6日発売号の『週間金曜日』にも掲載される予定だそうです。ぜひ書店などでお買い求めください(急きょの変更で、掲載はなくなったということです)。そのほか、


ビー・カミムーラ(ナブルス通信編集部)さんによる公開書簡「編集拝啓 村上春樹さま ――エルサレム賞の受賞について」
media debuggerさんの「村上春樹に読者の声を届けるよ!」
mojimojiさんのブログでの一連のエントリー


など、さまざまな方が問題提起を行い、作家本人にイスラエル擁護となる授賞式への参加を思い直すように、強く要請されています。


わたし個人も、この村上春樹への「エルサレム賞」ボイコット呼びかけにたいして同じ気持ちでいます。


ただし、それは、単なる一著名人を利用して、反イスラエルキャンペーンをおこなう以上の意味はありません。問題になっているのは、イスラエルの非人道的なパレスチナへの虐殺と占領をやめさせることなので、多くの人がそのことを理解し、行動できるようになれば、充分だと考えています。という点からして、基本的には、今回対象となっているのが「村上春樹」であるというのは、偶然的なことだと受け止めています。


しかし、上に挙げたいくつかのサイトでも見受けられますが、作家の道義性や作品の評価とからめて、この問題を訴えかけるという傾向が、少なからぬ方々にあるように思われます。場合によっては、村上がこのことにどう対応するのかをもって、作家にたいしての評価を決めようとするような論じ方も出ているようです。もちろん、そういう批判の仕方も可能だとは思います。ただし、イスラエルを批判しパレスチナ問題の解決を求めている人びとが、自分たち同様の思想信条やヒューマニズムを、作家としての村上に「本来的に」期待できるかのような文脈で語り始めるときには、微妙に違和感を感じないでもありません。


というのは、今回の村上へのボイコット要請の態度に相反するかもしれませんが、わたしの見方では、イスラエルの「エルサレム」賞を受賞するというのは、いかにも村上春樹に似つかわしいことだと思えるからです。


その理由をごく手短に要点だけ説明しますと、早い時期から村上作品およびその作者は、「非政治的」あるいは「個人的」だと指摘されてきました。そして『アンダーグラウンド』や『ねじまき鳥クロニクル』以降、そこに変化があったといわれます。しかし、私から見れば、もとの「非政治性」が単なる政治嫌いや個人主義ではなかったとしても、本質的には「日本主義」(しかも全く政治的に見えない「日本主義」)に帰着するものだということが、より顕著になっただけではないか、と思っていたからです。


例えば、「ノモンハン」など暴力をともなうような歴史的事件を取り上げるのが、村上の「現実へのコミットメント」のように当時持ち上げられました(『ねじまき鳥』)。ところが、よく読んでみると、ひとがリアリティであるかのようにみなしたのは、描かれていることが非常に「残虐」であったからでした。小説家として「残虐さへの嗜好」を隠せないのだとしたら、それはそれで「異常な作家」として好きに活躍してくれればいいのですが、そうではなく、むしろ「残虐さ」の強調に反比例して、そういった歴史的事件や暴力の事実性は、きわめて安易に空想化される。結局は、歴史に取り組むといっても、村上とその読者が好む安物のメロドラマ、やむことのない自己愛の哲学、気恥ずかしいソフトポルノなどを盛りたてる添え物として、活用されているに過ぎないのです。そして、暴力に間接的に傷ついた(直接的ではないのがミソである)人物の、「やましさ」と「癒し」の物語になる、というのがお決まりのパターンなのです。


要するに、ここには現実的な根拠、歴史を生きる人間のための根拠が全くありません。理由は、村上が問題の本質を隠蔽しているからです。歴史が隠しようなく示すのは、日本帝国主義がおこなってきた、侵略、空爆、侵攻、破壊、虐殺、略奪、レイプ、占領、没収、隔離、収容、監禁、暗殺、搾取、使役、弾圧、追放という具体的な様相です。であるからには、それらが現在の植民地主義遺制の日本と世界において、どのようなものして捉えられるのかを考えることが、歴史を主題とする者のつとめにほかならないでしょう。ところが、村上はこういう点については、左右問わず多くの日本人たちに好まれるようなかたちで曖昧にし、巧みな回避を心がけるのです。


ビー・カミムーラさんの公開書簡で引用されている、村上のインタビューが、このあたりの点を透かして見せています。表面的には、いかにも歴史問題に真摯に向き合っていることを述べているかのようにみえますが、注意深く読むと、この作家の特質がよく現れていると思います。


Q: It has been said that history has loomed larger in your recent writing. Do you agree?
A: Yes. I think history is collective memories. In writing, I'm using my own memory and I'm using my collective memory. I like to read books on history and I'm interested in the Second World War. I was born in 1949, after the war ended, but I feel like I'm kind of responsible for that war. I don't know why. Many people say, "I was born after the war, so I'm not responsible at all - I don't know about the comfort women or the Nanking massacre."
I want to do something as a fiction writer about those things, those atrocities. We have to be responsible for our memories. My stories are not written in realistic style. But you have to see reality. That is your duty, that is your obligation.
("What Haruki Murakami talks about" Heidi Benson, Chronicle Staff Writer, Sunday, October 26, 2008)


歴史を取り上げることの意義についての、インタビュアーの質問に答えて、村上は「その戦争(第2次大戦)に責任があるように感じる」といいます。「多くの人が『後世の自分には責任がない』と言っている」と補足までするので、誰もがこれを素直に受け止めてしまいます。しかし、この言い方は、むしろ「責任がある」とはっきり明言しないためにこそなされているのではないでしょうか? というのは、他人の発言については、「まったく責任はない」と断言させる一方で、自分のことについては(よく見てください)、「責任みたいなものがあるような気がする I feel like I'm kind of responsible for that war.」などと、表現をぼかしているのですから。こうした嫌らしいテクニックは、村上ならではの一級品といえます。極右修正主義者の横でなら、責任の所在をぼんやりさせていても、そう無責任には見えないものです。


その証拠に、次の段落では、「我々の(集団の)記憶に責任をもたなければならない」などと言いだします。戦争そのものから話をずらし、問題にされていたはずの戦争責任も、こうして巧妙に切り抜けるわけです。そして、事実よりも「記憶」が、しかも一人ひとりの取替えのきかない記憶ではなく、「集団的な」記憶が、村上には問題だというのです。もちろん、ここでいう「集団的な記憶」とは、「日本人」といわれるものたちにとっての記憶に他なりません。


作品における歴史問題の空想的な扱いとあわせて考えると、こういった発言の欺瞞性は明らかだと思います。戦争責任に触れているように見せかけながら、その本質的問題である他者、つまり自分たちが抑圧し殺してきた人々のことなど、まったく視野には入っていないのです。


もし、村上春樹という作家や作品に関係づけて、「エルサレム賞」ボイコットの訴えを行なうとするなら、この欺瞞的な態度について、多少とも意識的でなければならないと思います。なぜなら、イスラエルの国民にとって、これほど親しみのある思考法はないからです。圧倒的な暴力をもたらしてきたのは自分たちであり、また、それに今も苦しみ続けているものが間近にいるのを分かりながら、そのことには目をつむる。かわりに空想的な「やましさ」だけをはぐくみ、「集団的」にその「やましさ」を慰撫しあう。この自己慰謝の回路の内側にいる限り、外部にいる他者のことに思いをはせる契機はありません(まさに、同じインタビューの別の箇所で村上は「想像力」を否定している)。


いや、ひょっとすると、それよりもさらにひどいことに、こういう精神のあり方は、場合によっては、彼らの外部に押しやった人びとへの暴力を激化させる要因のひとつになっているのではないか? 自らに起因する暴力が「残虐」であればあるほど、自己のうちでは「やましさ」と「癒し」のうねり、カタルシスが高まることになるのですから。


イスラエルでは村上春樹の読者が多いと聞きます。私の分析が、このこととどの程度関連するかは分かりませんが、今までそうであったように、村上は、そこに自分にふさわしい読者を、しかもかなり理想的な読者を見出すかもしれません。そういう疑いが、私にはあります。


最後に念を押しますが、村上春樹への受賞ボイコット要請は、作品や作家のあり方などとは関係なく、なされればいいと思います。パレスチナ問題を考えている人の多くが、あまり村上を読んでいなかったり、知らなかったりするのは、非常に健全であるとともに、ある意味では当たり前なのかもとしれないと、私には思えます。上記に書いたような問題を、村上作品に基づいて考える必要はまったくありません。それは現実的な歴史の問題であり、現在の世界の問題だからです。


ということで、イスラエルボイコットにおいては「村上春樹のことなどどうでもいい」というのが、私なりのいちおうの結論です。一人の著名人として親イスラエル的態度をもつことに圧力をかけるだけのことです。「パレスチナの平和を考える会」の書簡は、読んでみて、この路線ではないかと判断しますので、以下に転載させていただきます。よろしければご覧ください。



村上春樹への公開書簡


エルサレム国際ブックフェア参加と「エルサレム賞」受賞のキャンセルを求めます。


 私たちは、来る2月15日から20日にかけてエルサレムで行われる第24回エルサレム国際ブックフェアに、あなたが参加され、「エルサレム賞」を受賞されることになっているとのニュースを聞き、大変にショックを受けています。


 私たちは、イスラエルがガザで1300人以上の尊い命を奪い、500人の重傷者を含む5300人以上の負傷者を出し、大勢の人々の生活を破壊しつくすという戦争犯罪を犯した直後のこの時期に、世界的に著名な小説家であるあなたが、イスラエル外務省、エルサレム市が全面的にバックアップする公的行事であるこのブックフェアに参加され、エルサレム市長から「エルサレム賞」を受賞されるということの社会的・政治的意味を真剣に再考されることを強く求めるものです。


 とりわけ、深刻な点は、「エルサレム賞」が「社会における個人の自由」への貢献を讃えるとしていることです。この間、イスラエルがガザで行ってきた虐殺や封鎖政策、そして東エルサレムで行っている入植地や「隔離壁」の建設といった犯罪行為は、パレスチナ人の自由を抹殺する行為であり、「エルサレム賞」の表向きの趣旨に真っ向から反するものです。あなたが「エルサレム賞」を受賞することで、イスラエルがあたかも「社会における個人の自由」を尊重している国であるかのようなイメージが、メディアを通じて流布されることになります。私たちは、この間、イスラエルパレスチナ人に対して組織的継続的に行ってきた想像を絶する人間性破壊の行為が相対化され、イスラエルが免罪されていく事態を恐れます。


 国連人権問題調査官のリチャード・フォーク氏は、イスラエル軍ジュネーヴ議定書に対する重大な違反を犯した「明らかな証拠」があると語っています。ヨーロッパの市民団体は国際刑事裁判所に責任者を提訴する準備を進めています。かつてのワルシャワゲットーを想起させる今回の虐殺を繰り返さないためには、国際社会は、耳をふさぎ続けるイスラエルに対して「虐殺を許さない・見逃さない・忘れない」というメッセージをあらゆる機会を利用して訴え続けていく道徳的義務を果たさなければならないと考えます。このことと「エルサレム賞」受賞は明らかに矛盾すると私たちは考えます。


 また、昨年11月にエルサレム市長に当選したニール・バラカット氏は、これまでの歴代市長と同様、東エルサレムにおける違法入植地の建設続行を表明しています。エルサレムの首都化、東エルサレムの併合、同地区への入植地建設は、いずれも国際法違反でありながら、イスラエルが強引に既成事実化をはかってきているものです。その結果、真の和平はますます遠ざかりつつあり、エルサレムのみならず、被占領地に暮らすパレスチナ人全体がアパルトヘイト政策の犠牲者となっています。彼らの「社会における個人の自由」はイスラエルによって徹底して抑圧され続けていると言わざるを得ません。この対パレスチナ人抑圧政策の中心にいるバラカット・エルサレム市長から「エルサレム賞」を受賞することは、イスラエルアパルトヘイト政策を隠蔽し、擁護することになると言わざるを得ません。そして、そのことは決してあなたの本意ではないと私たちは信じます。


 どうか、今も人間としての自由と尊厳を否定され続けている、そしてそのことに対し、日々を生き抜くというかたちで抵抗を続けているパレスチナ人たちの存在に目を向けてください。そして、「エルサレム賞」を受けるという行為が、今の中東情勢のなかで、世界にどのようなメッセージを与えうるのか、イスラエルにとってどのような宣伝効果を持ちうるのか、そして、満身創痍のパレスチナ人をさらに追い詰める危険性がないのか、再度、検討いただくことを誠心誠意、希望する次第です。


2009年1月29日


パレスチナの平和を考える会(Palestine Forum Japan)