ドイツ人のことよりも

白バラの祈り』をDVDで見る。前日『麦の穂をゆらす風』を見たときと、驚くほど似たような疑問を抱いてしまった。

作品はナチス政権末期にドイツで「白バラ」と名乗る反体制運動の学生たち、とくに女性のゾフィー・ショルが、ヒトラー批判のビラをまいたことで「大逆罪」を宣告され、たった数日で死刑に処された悲劇を描いている。しかし、なんというか、素直に見れなかった。

というのは、ゲシュタポナチス将校、拘置所の職員などが、ゾフィーの毅然としたヒトラー批判や正義の主張に、多少とも動揺し同情を寄せていたような演出が目立ったからだ。確かにそういう人がいたこともあるかもしれない。そういうことも描くことはあっていいと思う。それでも、ならば同様に、多くのドイツ人たちが、ゾフィーのような存在をどのように日々圧殺していたのかも、等分に描く必要があるだろう。

映画では、たった一人裁判官だけが悪の権化を引き受けさせられていて、他のドイツ人には、もうその時期にはいい加減うんざりしていたのだ、といわんばかりの雰囲気をただよわせ、ゾフィーという実在した人物にことよせて、なんとかドイツ人の善良性をすくいだそうという意識が非常に強いように感じられた。

しかし、これまた同じ結論にいたるのだが、はたして太平洋・アジア戦争末期、ある種の人々には日本の敗戦が濃厚だと感じ取られていたともいわれる時期、大日本帝国には、ゾフィーのような体制批判者がいたのだろうか。敗戦の日とされる8月15日自体が、メディアを操作したやらせの側面があることもあまり知られていないようだが、それを抜きにしても「どこかの時点で体制を覆すべきだった」というようなレビジョニズムさえ、日本では存在しない。帝国主義戦争に他国民と自国民を苦しめた罪悪にたいして、自分たちだったらこんな悪には加担しない、と自分たちの現在を擁護して切り分けようとするのが、いわばふつうのナショナリズムだろう。

いま歴史修正主義と呼ばれる一群は、じつはすでに本来の語義をまったく逸脱した一種の狂信とみなすほかないことが、このドイツのナショナリズムに満ちた映画をみることで気がつく。

白バラの祈り -ゾフィー・ショル、最期の日々- [DVD]

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