エチオピアのユダヤ人 『約束の旅路』を見て

先日『約束の旅路』を第七芸術劇場でみた。

少し前にラスタ関連の情報を探していて、『アウェイク・ザイオン』というドキュメンタリーをみたのだが(この映画自体は、ユダヤアメリカ人の若ものが、レゲエの歌詞に『聖書(トーラー)』の中の聖人が歌われたり、ユダヤ教とおなじ宗教的イコンが使われたりするのを不思議に思い、ラスタファリアンをインタビューし、その生き方や宗教的背景を取材するというものだが)、その映画の中に「エチオピア(黒人)のユダヤ人」(アメリカ在住)という人が出てきて、ヘブライ語の歌を披露する場面があった。ラスタには、「エチオピアニズム」という、『聖書』を黒人の文脈から読み直し、エチオピア(=アフリカ)こそ黒人と神のザイオン(シオン)であるとする思想運動が背景に流れているので、作り手はその問題と、この「エチオピアユダヤ人」になにかつながりがあるのかもしれない、と考えたようだった。しかしとくに詳しい説明もなく、見ている私もどう考えればいいのか、その映画だけでは分からなかった。

そもそも「エチオピアユダヤ人」というのは、どういう人々なのか。これは、ラスタについて調べている中で、エチオピア正教会の歴史などをちょこっと勉強していたので、大体想像はついていた。エチオピアには4世紀初頭にキリスト教が広がり、その後ヨーロッパの東方・西方教会とは違う形で存在し続けてきた。またエチオピアは『聖書』に出てくるソロモン王とシバの女王との間に生まれた子孫が、王として君臨してきたというえらくハイパーな神話があるそう。これらのことを総合すると、要するに古い時期にある種のユダヤ教が伝わっていて、古いキリスト教とともに独自のかたちで存続してきたのだろう、と考えられた。そして結果的には、私の予想は、まあそんなにはずれていなかったと思う。

約束の旅路』で描かれている物語は、80年代のエチオピア内戦によって、西どなりのスーダンに多数のエチオピア難民が逃れている状況の中で、イスラエル(軍)とアメリカが協力して、「エチオピアユダヤ人」を「救出する」という名目で数千人を空輸でイスラエルに移送した出来事が背景になっている。これを「モーセ作戦」と呼んだのだという。

映画は、単純に主人公に黒人の「ユダヤ人」をすえるのではなく、キリスト教徒のエチオピア人の少年が、それらの「ユダヤ人」にまぎれてイスラエルに入国し、成長する話にしている。そのことによって、作り手はこの題材を普遍的なテーマへとうまく引き上げていると受け取れた。どういうことかというと、イスラエルにやってきてみたら、「エチオピアユダヤ人」は「ファラシャ」と呼ばれ、黒人であるがゆえに宗教的厳格派や保守勢力、また一般国民からずいぶん差別を受けていたのだ。それでイスラエルの左翼は、文化的差別・人種差別を批判して、国民的平等を訴えることになる。だから、もし映画の主人公が、この「ファラシャ」であったなら、テーマは「ユダヤ人とは何か」というきわめて狭い問題性に限定されてしまうことになっていただろう。そうはならず、『約束の旅路』は一定程度、「人種/民族/宗教/言語/国民」という現代の人類が抱えざるをえないアイデンティティの主要な要素を、相対化する意識づけには、成功しているように思える。

しかし主人公が青年へと成長していく過程で、「自分はなにものか?」という問いを反復し、生き別れた母親を医師になって探そうとする後半は、いまひとつ映画に力が宿らなくなっている。というのは、少年時代の主人公は、母を難民キャンプに残してユダヤ人だと偽って生き延びている罪の意識から拒食症になったり、人々の自分への愛も猜疑もただ受身で耐えていただけだった、その絶望感と緊張感が失われているからだ。もちろんそういう人物が、自己への肯定を、ある生き方に見出す姿を描くことはかまわない。しかし青年の主人公が、マルチエスニック・マルチカルチュラルな自分のあり方をごくふつうに前提できるように成長したとき、実は彼は「イスラエル人」になっているのではないか? そして映画自身が、そのことをあたりまえのように無批判に通り過ぎてしまう。

このことが、この映画の最終的な問題点だと思う。見た直後にはわたしもそこまでは、なかなか言葉にはできなかった。しかし疑問はあった。一番の疑問は、なぜイスラエル国家は、国内で差別問題をかかえこむ存在である「ファラシャ」=「エチオピアユダヤ人」を、軍事行動をともなう強硬なやり方でイスラエルにつれてこなければならないのか。映画はその背景をまったく描いていないのだ。それは映画がパレスティナ問題をまったく描いていないことと、完全に対応しているようだ。

というのは、イスラエル国家には、「ユダヤ人」がまだまだ必要なのだ。それは国民のある割合をしめるアラブ・パレスチナ人をマイノリティにとどめるために、イスラエル国家が「ユダヤ人」国家であることを主張するために、シオニズムに人権上の正当性を付与するために、である。以下のサイトが、調べた中では唯一こういう問題を喚起してくれた。

http://palestine-heiwa.org/note2/200512061758.htm (「エチオピアの『ユダヤ人』の『人権問題』?」パレスティナ情報センター・Staff Note)

さて、ラスタならこのことをどう考えるのだろう。彼らはユダヤ教徒ではないし、ましてイスラエル国家になどまったく共感しないだろう。しかしエチオピアでマイノリティとして苦境にあった黒人のユダヤ人が、「シオニズム」によってイスラエルに帰還するというのは、ほとんどラスタのモデルであり、またエチオピアからの「エクソダス」という側面は、逆にラスタファリニズムの否定である。そして、その宗教的情念の実現は、「バビロン」を他者のうえにうちたてることにほかならないことを明かしている。ラスタ風にいうなら、権力者による"downpression"と同じことなのである。いったいカルトたちは、ここから何かを学ぶことができるのだろうか。

http://yakusoku.cinemacafe.net/ (『約束の旅路』オフィシャルサイト)