柄谷行人講演「力の構造」2

ヨーロッパでもどこでもそうですが、都市は城壁に囲まれていました。そこにはギルドや教会などの個別の社会があり、割合に独立的な組織のネットワークとして、形成されている。そこに属することで個人がでてくる。それに対する公共ということも、同時に存在することになる。


「城壁の内部においては、人々は共同の敵に対して団結し、共同の力をもっておのれが生命を護った。(…)そこでは共同が生活の基調としてそのあらゆる生活の仕方を規定した。個人を埋没しようとするこの共同が強く個人性を覚醒させ、個人の権利はその義務の半面として同じく意識の前面に立つに至った。(…)」(講演資料(1)b『風土』より)


しかし、個人というと日本では、単なる私的なものにすぎないことが多い。それは個人ではない。このことが、急速な日本の近代化を可能にしたのではないか。たとえば、アジアでもヨーロッパに似ている。ドイツでも実はすぐに国民国家ができなかった。中国でも、家族集団が強くて、国民国家がなかなか実現しなかった。華僑のような存在とそのネットワークは、国家の力にたよりません。それが近代化を妨げたといえる。それに対して、日本人は、公共性への関心が非常に弱いといわざるをえない。それを和辻が書いている。


「「家」を守る日本人にとっては領主が誰に代わろうとも、ただ彼の家を脅かさない限り痛痒をかんじない問題であった。よしまた脅かされても、その脅威は忍従によって防ぎ得るものであった。すなわちいかに奴隷的な労働を強いられても、それは彼から「家」の内部におけるへだてなき生活をさえ奪い去るごときものではなかった。」(講演資料(1)c『風土』より)


まさにここは、このブログで、こせきせいど=「いえ」せいどをもんだいにしていたことと、かかわるようで、きょうみぶかい。


このことに関連して宮崎学が『法と掟と』という本を出して、それに対して私が以前書評をしたものをそのまま資料に載せています(講演資料(2)=朝日新聞書評のWebサイトで閲覧可能)。国家のような「全体社会」にたいして、村や労働組合、同業者組合、経済団体などの「個別社会」がある。宮崎というひとはヤクザの組長の息子ということで、ヤクザに詳しい。ヤクザも「個別社会」のひとつです。そこでは抽象的な規範である「法」ではなく「掟」が機能している。しかし日本ではこの自治的な個別社会が希薄である。中国ではいまでも、幇や親族組織が強いです。共産党の国家になって、多少弱まったかもしれないが、それでも日本とは全然違う。


「個別社会」は「部分社会」ともいいます。その組織を「中間団体」とか「中間勢力」と呼びますが、ヨーロッパでは教会がその代表。国民国家になってもなかなかその力を解体できない。学校制度をしいて教育するのにも、非常に抵抗になった。一方、日本では仏教のお寺は、江戸時代においてすでに行政機構の末端になってしまっていた。寺子屋とかいってもすぐに国家のための学校に切り替えることがたやすかった。資料の(3)aにあるが、そういうことを丸山真男が指摘しています(「思想と政治」丸山真男集第7巻p128-129)。


なぜ、徳川時代に仏教が行政の末端組織になっていたかというと、16世紀に一向宗などが弾圧された結果である。また、自由都市も、堺や石山寺などとして、自治組織を形成していた。これも信長、秀吉につぶされた。それでも、京都・大坂には、多少その伝統が残っていたかもしれない。


なんとおどろいたことに、めいじのきんだいかのなかで、みんしゅうのじちてきなそしきがつぶされたのではなくて、すでにきんせいにおいて、かいたいさせられていた、ということのようだ。では、にほんのとくしゅせいは、めいじいこうの、てんのうせいに、もとめるべきでないのか? このあたりは、もうすこしこうさつが、ひつようになる。


それで丸山は、「個人析出のさまざまなパターン」を分析している(資料(3)b)。それをわたしなりにまとめた。


丸山真男は、近代化とともに生じる個人の社会に対する態度を、結社形成的associativeと非結社形成的dissociativeというタテ軸と、政治的権威に対する求心的centripetalな態度と遠心的centrifugalな態度というヨコ軸による座標において分析した。それは図のように四つのタイプになる。これを簡単に説明すると、民主化した個人のタイプ〈1〉は、集団的な政治活動に参加するタイプである。自立化した個人のタイプ〈2〉は、そこから自立するが、同時に結社形成的である。民主化タイプが中央権力に関心を持ち、他方は自治に熱心である。つぎに、私化した個人のタイプ〈3〉は、民主化タイプの正反対である。すなわち、〈3〉は、政治活動の挫折から、それを拒否して私的な世界に引きこもるタイプである。さらに、〈3〉と原子化したタイプ〈4〉の関係は次のようになる」





先ほどの話でいうと、〈2〉が城壁の都市で、〈3〉は家の垣根です。それが、さらにアトム化して単にばらばらにあるのが、〈4〉ということになる。イギリスなどの近代の先進国では、〈2〉‐〈3〉の方向性が強かった。それに対して後から近代化した後進国は、〈1〉‐〈4〉の方向性がどうしても強くなってしまう。しかるに、日本は早くから近代化し、明治の早い段階から〈4〉が登場し、ほとんど〈3〉‐〈4〉が支配的だったといえる。〈3〉とともにアトム化した〈4〉は、公共の問題に無関心なのだが、これは危険なものです。この無関心が突然反転して、ファナティックな政治参加を呼び起こすことになる。


このようなものにたいして、丸山は批判的だった(資料(3)d)。急速な国家の統一と産業の近代化が日本でおこなわれたことに関して、「その社会的秘密の一つは、自主的特権に依拠する封建的=身分中間勢力の抵抗の脆さであった。」と指摘している。戦後ずっと近代主義の一番の代表者として丸山はみなされてきて、いろいろ批判されてきた。全共闘もそうだし、最近も「丸山真男をどうこうしたい」とかいうようなものがあるようです。しかしこういったところを見ると、丸山は実は封建的な勢力を評価していることになる。ちょっとそこは違うのです。おそらくこれは、モンテスキューなどの影響があると思う。モンテスキューは「貴族・教会がなければ、政治は専制になってしまう」といっていたのです。