ちくごよみイラン・パペ『パレスチナの民族浄化』1

きのう、とうとうイスラエルぐんのちじょうぶたいが、ガザほくぶにしんこう・しんりゃくをかいしした。いじょうなことが、さらにひどいかたちで、きぼをかくだいして、おこなわれている。


すこしまえから、イスラエルのれきしがくしゃで、シオニズムイデオロギーをてっていてきに、ひはんしているイラン・パペのほんを、よみだしている。『イラン・パペ、パレスチナを語る』は、2007ねんに、らいにちしたさいの、3つのこうえんをしゅうろくしたもの。ちょうしゅうをまえにして、めいかいにパレスチナイスラエルのさまざまなもんだいを、ときあかしているので、わかりやすく、ひじょうにべんきょうになった。とくに1948ねんのイスラエルけんこくにおいて、はっせいしたパレスチナのなんみんは、イスラエルによる「民族浄化エスニック・クレンジング)」によって、ひきおこされたこと。それが60ねんたったげんざいも、つづいているということなど。


ちなみにイラン・パペとそのしそうについては、「パレスチナ情報センター」のサイトにけいさいされている、早尾貴紀さんの「パペから学ぶ歴史認識と多文化共生」http://palestine-heiwa.org/doc/2007/pappe.htmlというぶんしょうが、ひじょうにていねいで、いきとどいたかいせつになっている(とくに、イルボンサランには、その「6」)。


さらに、えいごげんしょのしんかん『The Ethnic Cleansing of Palestine』にも、ちょうせんしている。こちらは、もちろん、ちちとしてすすまないが、でだしのぶぶんを、ちくごてきにりかいしてみた。


第1章 民族浄化の「疑い」?


民族浄化エスニック・クレンジング)の定義


 民族浄化は、今日においては明確な概念です。ほとんど旧ユーゴスラビアでの出来事だけを想起させる概念化によって、「民族浄化」は、国際法によって罰せられるべき、人道に対する罪として定義づけされるようになってきました。セルビアの軍司令官や政治家が使っていた「民族浄化」という用語の特徴的な用法は、学者たちに、以前にも耳にしたことのあるものだと思い起こさせました。それは第二次世界大戦中にナチスによって用いられ、またその同調者たち、たとえばユーゴスラビアにおけるクロアチア民兵によって用いられたのでした。土地からの集団的な追いたては、もちろん、もっと古くから存在します。つまり外国の侵略者は、「聖書」の時代から植民地主義絶頂の時点まで、ずっとその「民族浄化」(あるいは同種のことば)を使ってきましたし、先住民に対して文字通りその概念を実行してきたのです。


 ハッチンソン百科事典では、民族浄化を「特定の地域や領土において民族的に交じり合った人々を、均質化するために暴力によって追放(排除)すること」と定義しています。追放の目的は、出来る限り多くの住民の避難を引き起こすことにあります。もちろん追い出す側のさじ加減で、クロアチアにおけるイスラム教徒がそうだった(1995年11月のデイトン協定ののち追放された)ように、暴力をともなわないこともあります。


 この定義は、アメリカ合衆国国務省も採用しています。彼ら国務省の専門家たちは、これに付け加えて、民族浄化の核心にあるものは、その地域の歴史の、ありとあらゆる方法での根絶であるとしています。最もよくみられる手法は、「懲罰や報復行為を正当化するような雰囲気の中で」人々を追放させるというものです。こういった行為の結果、難民問題がもたらされるのです。アメリ国務省は、特に1999年5月ごろ西コソボのペックという町で起こった出来事に注目しました。ペックでは24時間以内に住民追放が行なわれました。おそらくそれは、事前にねった計画を、組織的に遂行したことによってしかなされえなかったはずです。作戦のスピードを上げるために意図的に、散発的な殺戮も行なわれたのでした。1999年にペックで起こったことは、ほとんど同じかたちで、1948年のパレスチナの数百の村々で起こっていたものです。


 さて国際連合に目を向けてみると、ここでも似たような定義が採用されていることが分かります。国連は、1993年に真剣にこの概念について討議しました。国連人権委員会(UNCHR)では、国家や政体が混住地域に民族的支配を強制しようとすること(たとえば大セルビアの建設など)と、追放行為やその他の暴力的手段の採用を関連づけています。人権委員会が公表した報告にしたがえば、民族浄化の行為には、女性と男性を引き離すことや、男性の拘留、家屋の爆破、後で別の民族集団を残った家屋に住まわせることなども、含まれるものとして定義されます。コソボのいくつかの場所では、イスラム民兵が抵抗運動を立ち上げていたのですが、その抵抗が非常に強かったところでこそ、追放に際して虐殺が伴っていた、と報告は指摘しています。


 イスラエルによる1948年のD計画には、序章でも触れたように、民族浄化の手法が一通り含まれており、その一つ一つが国連による民族浄化の定義のなかで述べられている方法とそれぞれ対応しています。そして同計画が背景となって、大規模な追放とともに数々の虐殺を引き起こしたのです。