村上春樹による政治的なスピーチと、湧き上がる非政治的な解釈

村上春樹が「エルサレム賞」授賞式で行ったスピーチをめぐって、いろいろと議論があるようだ。必要最小限のことだけ、明記しておきたい。


スピーチを受け止める側の多くが、単に村上の政治的な姿勢を問うていたはずであるにもかかわらず、たとえば「壁と卵」といういかにも村上らしい表現に引きずられて、その本来の問題提起をぼやかせてしまっていることに、かなりの違和感をわたしは感じている。ちょっとはっきりいうと、今回の村上のスピーチに賞賛を送るのは、もともとのヒューマニズムのそこの浅さが、露呈してしまっているのではないか。


確かに村上は、イスラエルのガザに対する軍事攻撃に批判的なコメントを寄せた。それに意想外の印象を受けて、「村上春樹もいいところがある」と考えるのもいいと思う。イスラエルを批判する意見が、世界に多くあることをそれなりに示す機会をつくったのだから。そこで話をやめるならいい。しかし、村上のスピーチに自分たちのヒューマニズムの正当性のあらわれを見出そうと、あれこれ解釈を繰り返すのは、ほとんど不毛であると思う。どうも自己満足を得るのに忙しくて、重要なポイントを見過ごし始めているのではないか。


イスラエル国家がお墨付きを与えるような文学賞を拒否すべきだ」という考えは、もともとどういうヒューマニズムに立脚していたのだろうか。それは、どんな機会とチャンネルを使ってでも、パレスチナ人を苦しめ続けるイスラエルの殺戮・占領・不正義をやめさせたい、ということだと思う。そして今回村上春樹がそのことに関係してきたのは、いままでほとんど誰も知らなかったどうでもいい「文学賞」が引き寄せた、単なる偶然である。だからわれわれには、村上が日本の作家だとか、どんな作品を書いているかとかは、二次的なことに過ぎない。本来このヒューマニズムが要請するは「パレスチナが置かれている状況を変えるために、あなたも何か役立つことをしてくれ」ということだ。


はたして村上はそれに貢献したのか? 実はそのことにはほとんど貢献していない。こういうと驚かせるかもしれない。しかしよく考えてみれば、村上はただ「イスラエルには加担しない」と言っただけなのだ。ペレスの横に座り、「エルサレム賞」を受賞し、ユダヤイスラエル国民の政治意識を問題にしないまま、感謝の言葉をのべているのであるから、パレスチナ解放に「役立った」とは、とてもいえないだろう。「ガザへの軍事侵攻や白リン弾に言及したではないか」と反論があるかもしれないが、それは事実についての言及なのであり、そういうしか他にしようのないことである。親イスラエルの欧米のメディアでも書いているようなことだ……、というか、イスラエル国家も明瞭に認めているような事実である。


もちろん加担しなかったので、それはいいことである。もし加担をしていればもちろん、われわれ「パレスチナ側にたつ」ものからの攻撃の対象となっていただろう。それについて村上春樹は賢明にも避けた、ということに他ならない。だから、とりあえず村上問題は、わたしにとっては、基本的にはここで終了となる。



しかし、どうもこの件に関して、過大評価と思われるような、ややしまりのない言説がはびこっているようなので、ごく簡単に問題と思われるポイントを指摘しておく。わたしが率直におかしいと感じるのは、村上がスピーチの中でまとう、あからさまな政治的な身振に対して、多くの人が自分達の都合に応じた解釈で済ませたり、あるいは見過ごしたりしていることだ。(以下村上のスピーチの日本語訳はhttp://anond.hatelabo.jp/20090218005155のどなたかのものをお借りした)。


「受賞の報せから何回自問した事でしょうか。こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。もちろんそんな印象は与えたくありません。私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。」


あんなえげつない国家に加担しないというのは、まあ、まともな感覚といえる。ただし「どんな国も支援しません」と最後に付け加えるとき、イスラエル国家のやっている極端な不正義を、村上は絶対視せず相対化してしまっている。「イスラエルだけでなくどんな国家も支持しません」というのでは、今回の文学賞受賞のどこに問題があったのか、全く分かっていなかったことになる。われわれはイスラエルが60年以上にわたってやってきた、きわめて特殊な政策や、いまも行なわれ続ける戦争犯罪と人権蹂躙を問題にしている」はずではないか? それなのに「どんな国も支援しません」というような問題のはぐらかし方に鈍感ではありえない。ここでは「イスラエル」が問題なのである。なのに、このような問題の本質をずらすような態度は(いわば村上の常套手段でもあるのだが)、ことによると「イスラエルからの受賞などボイコットすべきだ」と主張するわれわれの考えに、実はまったくくみしないことを示そうとしているのかもしれない。


「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」

この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。爆撃機(bomber)と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。これが暗喩の意味するところのひとつです。

しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在(soul)です。私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。壁には名前があります。それはシステム(The System)です。システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。


この部分は新聞やブログなどあちこちで読んだので、食傷気味の方も多いだろうから、ごくかいつまんで言おう。一番考えなければならないポイントは、「高く頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵のどちらかというなら、私は卵の側に立ちます」の後の2段落目、「イスラエル批判」として受け止められている箇所の、微妙なニュアンスである。「この暗喩はある意味、単純で明快『すぎる』」「すぎる」と村上がいうとき、「《イスラエル》=《壁》で、《パレスチナ》=《卵》だ、というのはすぐ思いつくことだが、そんな単純なことだけを含意したいのではない」という力点を持っていることである。


そして実際3段落目で「私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です」と「より深い意味」が開陳され、ここで、村上が一番訴えたいことが、「《個々の人間》=《卵》、《壁》=《システム》」という極めて陳腐な、どこにでもあるような社会論もどきのことであることがわかる。いや、これはこれでそういうことがしゃべりたいならなんとでもしゃべればいい。しかし、2段落目の誰もが連想せざるをいえないガザの現実の生々しい問題よりも、3段落目のこのことが重要であるかのようなコントラストは、見過ごせない点である。しかもこれがイスラエル国民に向けて語られていることをつけ加えるなら、まったくもって明瞭な「政治的スピーチ」であるとしかいいようがない。ガザの苦しみと、イスラエル人たちの市民的な苦悩が、同じことか、いや、むしろ後者の方が村上の大きな関心ごとだと述べていることになるからだ。


そうすると、こういうくだりについても、奇妙と感じる以上に、わたしはほぼ腹立たしい気分になってくる。


もちろんこれには理由があります。ガザを怒りでみたした激しい戦いです。国連によると1000人以上の方たちが封鎖されたガザで命を落としました。その多くは非武装の市民であり子供でありお年寄りであります。


村上はなぜ一般に言われている「1300人以上」という死亡者数を「1000人以上」などと、低く見積もるような発言を行なっているのか? 大きな概数を示した言い方と、多くの人は受け取っているのかもしれないが、それは欺瞞である。これはイスラエルで行なわれたスピーチである。あなたも知っているだろう。イスラエルアメリカでは「パレスチナ側が公表した死亡者数が事実かどうか疑わしい」という非常に悪辣なキャンペーンがあることを。あなたがガザでの犠牲者数について言及するとき、完全に正確な数字を言うことができない自分に不安を覚えながらも、しかし事実を矮小化するようなことは決してするまい、という気持ちを抱いてきたのではないか? そういう感覚が村上にははたして見受けられるだろうか?


昨年私の父は90才でなくなりました。彼は元教師でたまにお坊さんとして働いていました。彼は大学院にいた時、徴兵され中国に送られました。戦後生まれの子供として、父が朝食前に長く深い祈りを仏壇の前で捧げていたのを目にしましたものです。ある時、私がどうしてお祈りをするのかたずねたところ戦争で死んだ人々のために祈っていると答えてくれました。
味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていると父はいいました。仏壇の前で正座する彼の背中をながめると、父にまとわりつく死の影が感じられるような気がしました。


なぜ村上はこんなことを、わざわざイスラエル人に話しているのか、あなたは考えたのか? ここで村上が無意識に何を告白しようとしているのかを、ちゃんと指摘している日本人は、おそらくほとんどいないだろう。幼い村上が直観し、現在の村上が自覚しているのは、この父親が中国戦線で多くの中国人を殺してきたはずだということである。1940〜43年あたりの召集だったからには状況的にも、そして父親の振る舞いからも、類推される。しかし彼ら親子は、そのことを語り合うことはなかった。こうして人前で告白する今になっても、村上は、父親についてのその強烈な出来事を事実化して本当に受け入れるようには向かわず、「死の影」というような不安の印象として曖昧にしてしまう。


もうそろそろあなたも気づいただろう。この態度は、自分の父親や兄弟や子供が、パレスチナ人を殺していることに気づきながら、それを見ないよう知らないよう話さないようにするイスラエル人の態度であることを。村上は、イスラエル人の「苦悩」を理解し、なだめる立場に自分がいることを、非常に具体的な経験として表明したのである。このイスラエル人への「深い共感」は、あまり多くの言葉で説明されないながら、それなりに多くのイスラエル人に伝わっているとわたしは考える。授賞式が行なわれる前の時点で「イスラエルの『エルサレム』賞を受賞するというのは、いかにも村上春樹に似つかわしいことだ」とわたしは書いた。


わたしは村上をその文学において批判するが、上記のような問題意識に根ざした作家であることは、すでに知られていたことであり、今回の件でもう一度、わざわざ問題にする必要もないと考えていた。単なる村上ファンについても、いちいち言うまい。しかし、パレスチナ人の立場に立って考えるべき人々が、ご都合主義の解釈で、村上の自己免罪のスタイルに感染したような口ぶりをしているのを見ると、何のためのヒューマニズムか、といわざるをえない。村上は、スピーチで、パレスチナ人を積極的に支持表明しなかった一方、シオニスト中道から左派のメンタリティに親和的であることを、あらためて示した。ここにはほめるべきものは何もない。

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090218/p1
http://0000000000.net/p-navi/info/column/200902180109.htm